りょうてん公式ブログ

東洋医学、鍼灸に基づいた健康維持について書きます

藤田霊斎氏の呼吸法『藤田式息心調和法初伝』より(2)

『藤田式息心調和法初伝』の続きです。

前回は調息法、呼吸の仕方でしたが、今回は調心法、意識の用い方です。4

 

 

第二節 調心法

我々は前に述べてた通りの調息をする時に当たって、ただ無意味に呼吸ばかりをフーフー、ハアーハアーやっておるようではならぬ、そういう呼吸のやり方は、動物的呼吸法と言うて誠につまらぬやり方である、そんなことでは到底真の無病強健などの目的の達せらるる訳のものではない、しからばどうすれば良いかというに、その一呼吸ごとに必ず一つの観念、すなわち精神作用がそうて、そうしてそれが多いに働くようにせねばならぬので、これがすなわち余が息心調和法の特色である、そこでその方法中の最も簡易なものの一つを教えるのが、すなわちこの初伝の眼目である。 

 

(イ)血液循環の観念作用

 血液は一切の疾病を治す第一の要素であり、肉体を強健にする第一の栄養素であることも、またその血液は精神作用によりて、自由に循環さするとのできるものであるという理由も前にすでに説いておいたから、今度はその方法を説くことにする、ついてはまず左の事柄を承知し、そうしてそれに対しては、まず持って生理学がどうだの、病理学がどうだのなどと理屈を言わずに、ただそうであると思うて、その通りに観念していればよろしい、しばらく理屈は禁物である。

 

(ロ)観念法

 まず身体を三分し、胸から上頭脳までを一つとして、これを上部といい、腹部全体を一つとして、 これを中部とし、腹部から以下両足を一つとして、これを下部という、そこで胸から上にある病気は全てこれを上部の病と称し、腹部の病は全てこれを中部の病と称し、腹部以下の病は全てこれを 下部の病ということにする。

 上部の病の時にも、中部の時にも、下部の時にも一呼一吸 ごとに必ず新鮮な、純潔な血液がその局部に循環し来たりて、その病を治すということを観念するのであって、その方法は左のとおりである。

 

◉上部の病の時に呼吸とともにする観念法

上部の病のある時には、まず、心臓と肺とは胸部にあるのではなく丹田すなわち下腹部にあると定めておくべし、

(仮にそう定めておくのであるが、しかし今時、心臓や肺が腹部にあるなどと、そんなバカなことが思われるものか、といえばそれまでであるけれども、まずもって今は理屈は言わずに、そういうこともあるものと、思うてその時だけは、それを信じて否思っていればよろしいのである)

さてそう定めておいて、それから前に説いた通りの呼吸法をやるときに、その呼吸とともに左のごとき観念をなすべし。

 ▲まず息を吸い込み、かつ下腹部にムートと力を入れて、しばらくこらえておる時に、

『このところ(下腹部)から極めて 純潔な、新鮮な血液が湧き出でて、、

病気のあるところへ循環し来たり、そうしてそれがすっかり病毒を吸収し退治して治してしまう』という意味のことを堅く堅く観念し。

▲次に息を吐き出すとき、すなわち 呼気の時には、

『その病毒を吸収し退治して、不潔となり、かつ効能のなくなった血液は、ズーッと下腹部へ下がり来てそこでまた浄められ、新しくなるのである』という意味のことを観念するのである。

右の観念は必ず一呼一吸とともになすべく、しかるときには、その精神作用が呼吸なる生理的の側に属する機械的作用を助けて10倍も 20倍も血液の循環を良くすることとなるのである。

 

◉ 中部(腹)の病のときに呼吸とともにする観念法

腹部の病の時には心臓と肺とは普通の場所すなわち胸部にあることとして、さて左の通りの観念をなすべし。

▲息を吸い入れ、かつ下腹部にウーと力を入れて、しばらくこらえておる時に左の観念をなすべし。

『下腹部に滞りて、病原となりつつある血液は皆ことごとく上に登りて心臓へ返り、そうしてそれが肺に至りで浄められ、 新鮮な血液となる』ということを堅く観念し、

 ▲次に息を吐き出すとき、すなわち 呼気の時には、

 『心臓より純潔な血液が流れ出て、それが今腹部の病気のあるところへ回りきたりて、ここに ある病気を治癒してしまう』ということを観念するのである。

 

◉ 下部(腹以下)の病の時に呼吸とともにする観念法

 下部にある病気の時には、さきの上部の時と同じく、心臓と肺とが下腹部すなわち丹田にあるものとして、左の如く観念すべし。

▲吸息しかつ丹田に力をみたす時には、

『この丹田中より、純潔な新鮮な血液が流れ出でて、それが下部の病気のあるところに到り、そうしてその病気をすっかり治してしまう』ということを観念し、

▲次に呼気すなわち息を吐き出す時には

『下部に流れきたりて病気を治した血液が、今はまた上に登りて、純潔にせらるるのである』ということを観念すべし。

 

 ◉一般虚弱者のなすべき観念法

 現に病気にかかっている人々は、右のごとき方法でよろしけれども、世に言う虚弱者に対しては、 また別に観念法がなければならぬ。

 それはこうである

▲息を吸い入れかつ、丹田に力を充たした時には、

『腹部を始めとして、全身に 滞っておる血液は皆ことごとく心臓から肺へ帰って行き、そうして純潔にせらるるのである』と観念し、

▲ 息を吐き出す時には、

『純潔になった血液が 今全身を循環しつつある』と観念するのである。

 

(ハ)静息と観念作用

 静息とは前に言うたごとく、ただ丹田にのみ力を加えたままで、呼吸の出入りとも 自然に任せ、静かに呼出吸入させておくをいうのである。

而してこれは前の呼吸をやってのち、しばらくこの状態にあるようにするのであるが、さてこの静息の時に至って、最もよく前の観念作用が働くようにするのである。

先の呼吸の時にする観念作用は、こう思わねばならぬ、こう考えねばならんなどとことさら注意して、ようや その観念ができることとなるも、今この時には、前からの注意力が、次第次第に積聚してもはや無意識的にその観念が働くこととなるので、その状態はまずザッと左の如くである。

『呼吸はしておるでもなければ、止めておるでもなく、ただ自然のままの呼吸をやっておると、一方では観念作用のために、血液が最も順調に具合良く循環しておるのが、確かに分判ってくるのである』

右のごとき状態になった時には、実にその効験は著しき故、この修練法を実修する人は、まずもってここにまで達するように勤めなければならぬ。

 

 (附)実修者の注意要項

実修の時にもし雑念妄想が起きてこの関連ができるのならば、雑念が起きたら起きたままにして、それらのことにはごうも頓着せず、ただ心を下腹の中にのみ落ち着け、そこに気力が集まるよう、 集まるようにと注意した呼吸だけを一意専心やっておることにすべし、かくしてだんだん修熟しさいすればついに 雑念も消えて観念のできるようになるのである。

▲ 実習の時にはいつにても差し支えなく、また何回せねばならぬとの決まりもなく、ただ暇あるごとに日に何回でもやるようにすべく、また場所などはどこでもよろしい。

▲行住坐臥ともに常に恒に下腹に力を充たし、そこに注意しておるようにすると最も肝要なり、ただしその時には鼻からかすかに息を洩らしておるようにすべし。

▲呼吸法または観念法のことなどは、中伝に進むと詳細に分かる故、今ここではあまりむずかしく考えずににただ右に教えた通りを忠実に実行しさえすればよろしいのである。